賃上げ税制は給料を押し上げたのか 大企業向け廃止が示す政策の限界
賃上げ促進税制は、企業がすでに増やした給与の一部を税額控除する制度であり、税制だけで賃上げを生み出す仕組みではありません。利益が出ていて、賃上げする余力もある企業には後押しになりますが、赤字企業や価格転嫁に苦しむ事業者には効きにくいからです。
政府も2026年度税制改正でこの限界を踏まえ、大企業向け措置を廃止しました。中堅企業向けは要件を厳しくして2027年3月末まで、中小企業向けは現行制度を維持しつつ、期限到来時に見直す方針です。
この記事で分かること
- 賃上げ促進税制が企業のどの行動を支援する制度なのか
- 大企業向けが2026年度に廃止された理由
- 給与総額の増加と、一人ひとりの基本給上昇が同じではない理由
- 中小企業の賃上げに必要な税制以外の条件
2026年度改正で制度は縮小に転じた
結論からいえば、政府は賃上げ税制を一律に拡大する段階から、対象を中堅・中小企業に絞る段階へ移りました。
2024年度改正では、物価上昇を上回る持続的な賃上げを目標に制度が強化されました。大企業には高い賃上げ率に応じた控除率を設け、従業員2,000人以下の企業には新たな「中堅企業」枠を創設。中小企業には、控除しきれない額を5年間繰り越せる仕組みが導入されました。
しかし、2026年度改正では方向が変わります。経済産業省の案内と財務省の改正解説によると、主な変更は次の通りです。
- 全企業向け、実質的には大企業向けの措置を2026年3月末で廃止
- 中堅企業向けは2026年度に要件を強化し、2027年3月末の期限到来で廃止
- 中小企業向けは2026年度も現行制度を維持
- 教育訓練費を増やした場合の控除率上乗せを廃止
- 子育てとの両立や女性活躍に関する認定企業への上乗せは維持
これは単なる制度整理ではありません。政府自身が、大企業では内部留保や現預金が積み上がり、人的投資は本来、経営判断や企業統治を通じて進めるべきだと判断したことを意味します。
賃上げ促進税制はどのように働くのか
この制度は、企業が従業員への給与支給額を前年度より増やした後、その増加額の一定割合を法人税などから差し引く仕組みです。
先に賃金を払い、後から税負担が軽くなる
税額控除は、賃上げ前の資金を企業に渡す補助金ではありません。企業はまず給与を支払い、その後の申告で控除を受けます。
例えば、給与総額を1,000万円増やし、適用される控除率が15%なら、計算上の控除額は150万円です。ただし、実際に差し引ける額には法人税額を基準とする上限があり、要件を満たせば必ず全額を使えるわけではありません。
企業から見ると、賃上げによる追加負担1,000万円が150万円軽くなる一方、残る850万円は自社で負担し続けます。翌年度以降も給与水準を維持するなら、その原資は売上や生産性の向上から確保しなければなりません。
ここがポイント: 賃上げ税制は、企業の人件費を国が恒久的に肩代わりする制度ではない。賃上げする企業の初期負担を軽くし、経営判断を後押しする制度である。
中小企業には5年間の繰越控除がある
中小企業向け制度では、前年度から給与総額を1.5%以上増やすと15%、2.5%以上増やすと30%の税額控除が基本となります。一定の認定要件を満たす場合は上乗せもあります。
赤字などで当期に控除できない場合、控除額を5年間繰り越せる点は重要です。賃上げした年に税負担を減らせなかった企業でも、後に黒字化すれば恩恵を受けられる可能性があります。
ただし、将来も利益が出なければ控除は使えません。繰越制度は赤字企業への即時の資金供給ではなく、将来発生する税負担の軽減です。
給与総額が増えても全員の基本給が上がるとは限らない
制度の判定指標と、働く人が実感する賃上げにはずれがあります。
税制が主に確認するのは、対象となる従業員への給与等支給額が前年度からどれだけ増えたかです。しかし給与総額は、基本給以外の理由でも増えます。
- 採用人数を増やした
- 残業時間が増えた
- 賞与を一時的に上積みした
- 高賃金の専門人材を採用した
- パート従業員の勤務時間が長くなった
- 定年退職者が減り、在籍者数が増えた
このうち、雇用の増加や賞与の支給にも価値はあります。ただし、既存従業員一人あたりの基本給が持続的に増えたとは限りません。
特に家計にとって重要なのは、名目額だけではなく、物価上昇を差し引いた実質的な購買力です。給与が2%増えても生活費がそれ以上に上昇すれば、使えるお金は増えません。
したがって政策効果は、適用企業数や控除額だけでなく、少なくとも次の指標を組み合わせて検証する必要があります。
- 一人あたりの所定内給与
- 賞与を含む現金給与総額
- 雇用者数と労働時間
- 消費者物価を差し引いた実質賃金
- 大企業、中堅企業、中小企業の規模別動向
- 正規・非正規雇用の違い
税制が効く企業と効きにくい企業
政策効果を左右するのは、企業が賃上げの費用を将来にわたって負担できるかどうかです。
効きやすいのは「賃上げするか迷っている黒字企業」
売上と利益が安定し、人材確保のために賃上げを検討している企業では、税額控除が最後のひと押しになり得ます。追加人件費の一部が戻ると分かれば、賃上げ率を少し高くする判断もしやすくなります。
人手不足が深刻な業種では、賃上げをしなければ採用や定着が難しいため、税制はその負担を和らげます。とりわけ地方の中堅企業は、地域の雇用を支えながら大都市圏の企業とも人材を奪い合っています。中堅企業枠には、その競争条件を補う役割があります。
効きにくいのは「賃上げ余力そのものがない企業」
原材料費やエネルギー価格が上昇しても販売価格へ転嫁できず、手元資金が乏しい企業は、将来の税額控除だけを理由に固定費を増やせません。
また、法人税をほとんど納めていない企業では、その年の控除効果が小さくなります。中小企業には5年間の繰越控除があっても、今月の給与や仕入れ代金を支払う資金にはなりません。
ここに制度の根本的な選別があります。税額控除は利益のある企業ほど早く使いやすく、経営が厳しい企業ほど恩恵が遅れやすいのです。
大企業向け廃止は妥当なのか
大企業向け措置の廃止には合理性がありますが、すべての企業が税制なしで賃上げできるとは限りません。
廃止を支持する理由
第一に、賃上げ税制には「もともと予定していた賃上げ」にも控除を与える問題があります。税制がなくても同じ賃上げをしていた企業に減税すれば、政策によって新たに増えた給与と、単なる財政負担を区別できません。
第二に、大企業は人材市場、株主、取引先から賃上げや人的投資を求められています。政府は2026年度改正で、内部留保や現預金の蓄積、企業統治を通じた人的投資促進を踏まえ、大企業への税制支援を終了しました。
第三に、人手不足の局面で大企業だけを税制で支援すると、地域の中小企業から人材が移る動きを強める可能性があります。大企業の給与水準だけが上がれば、中小企業は採用難と人件費上昇に同時に直面します。
廃止に慎重な見方
一方、大企業の賃上げは取引先や地域の給与相場へ波及する可能性があります。高い賃上げ率を条件にした税額控除が、経営会議で賃上げ幅を引き上げる材料になっていた企業もあるでしょう。
問題は、制度の有無と賃上げ率の因果関係を十分に分離できるかです。景気、人手不足、物価、労使交渉が同時に動くため、「控除を使った企業の賃金が上がった」という事実だけでは税制の純粋な効果を証明できません。
廃止の評価には、制度を利用した企業と、条件が似ている非利用企業を比較する検証が必要です。
財源と公平性をどう考えるか
税額控除は予算支出に見えにくいものの、国が受け取る法人税を減らす政策です。
そのため、政策判断では次の二つを比べなければなりません。
- 税収を減らして企業の賃上げを支援する効果
- 同じ財源を社会保険料負担の軽減、職業訓練、設備投資支援などへ使う効果
賃上げ税制には、企業が雇用や給与に関する判断を行うという市場との近さがあります。行政が賃金額を直接決めず、企業の行動に条件を付けて支援できる点は利点です。
反面、黒字企業への減税に偏りやすく、効果がなかった場合にも財源を取り戻せません。租税特別措置は、一度設けると恩恵を受ける企業や業界が継続を求めやすいため、期限ごとの効果検証が欠かせません。
教育訓練費の上乗せが2026年度に廃止されたのも、制度点検の結果です。財務省は、教育訓練費の増加額より税額控除額が大きくなる場合があるとの会計検査院の指摘を理由に挙げています。支援目的と減税額が釣り合っているかを確認する必要性が表れた事例です。
持続的な賃上げには何が必要か
税制の役割は限定的であり、賃上げを続けるには企業が毎年稼げる環境を整える必要があります。
価格転嫁を取引の現場で機能させる
中小企業が原材料費、人件費、物流費の上昇分を販売価格へ反映できなければ、賃上げ原資は生まれません。発注側が価格を据え置いたまま受注側に賃上げだけを求める構造では、税制の効果は一時的です。
必要なのは、価格交渉の実施状況だけでなく、実際にどこまで転嫁できたかの確認です。国や自治体の公共調達でも、人件費上昇を契約価格へ反映できる仕組みが問われます。
生産性向上を人員削減だけで捉えない
設備、ソフトウェア、人材育成への投資によって、一人あたりの付加価値を高めることも欠かせません。単純な省人化で仕事量だけが増えれば、企業収益が改善しても働く人の処遇改善にはつながりにくくなります。
賃上げ支援と設備投資支援を組み合わせる場合は、導入後に売上、労働時間、賃金がどう変わったかまで追うべきです。
社会保険料を含む企業負担を見る
企業が従業員の給与を上げると、事業主が負担する社会保険料も増えます。従業員側でも保険料や税負担が増え、額面ほど手取りが伸びないことがあります。
生活者が感じる効果を測るなら、基本給の増加だけでなく、税と社会保険料を差し引いた可処分所得まで見る必要があります。
今後の注目点
今後の焦点は、中小企業向け制度を残すかどうかではなく、どの企業行動を追加的に生んだかを確認できるかです。
確認すべき項目は明確です。
- 中小企業の5年間の繰越控除が実際にどれだけ使われたか
- 制度利用企業で基本給と一人あたり賃金が持続的に増えたか
- 税制がなくても実施された賃上げへの減税がどの程度含まれるか
- 価格転嫁、生産性、収益力の改善と賃上げが連動したか
- 中堅企業向け措置の2027年3月末廃止が賃金や雇用にどう影響するか
- 中小企業向け制度の期限到来時に、政府がどのデータを基に見直すか
賃上げ促進税制は、賃上げを選ぶ企業の負担を軽くする補助線にはなります。しかし、利益を生む力や価格転嫁の弱さを税額控除だけで解決することはできません。
政策の成否を判断する次の焦点は、減税額の大きさではなく、税制がなければ生まれなかった基本給の上昇が、いくら、何年間続いたのかです。政府が中小企業向け措置を見直す際には、その数字を示せるかが問われます。
