退職金税制は転職を妨げているのか 「勤続20年」の壁を見直す前に必要なこと
結論から言えば、現行の退職所得控除は長期勤続を相対的に優遇しており、転職に中立な制度ではありません。しかし、控除を一律化して長期勤続者の税負担を増やすだけでは、働き方改革にはならないでしょう。
必要なのは、転職者の老後資産を勤務先の違いにかかわらず持ち運べる仕組みと、変更前の勤続期間を保護する経過措置です。税制だけを先に動かせば、定年が近い会社員の生活設計を崩す一方、若い世代の転職環境はほとんど改善しない可能性があります。
この記事で分かること
- 現行制度が「勤続20年」を境に長期勤務を優遇する仕組み
- 2026年8月時点で何が変更され、何が検討段階なのか
- 転職者、長期勤続者、企業、国の財政に生じる利害の違い
- 見直しを働き方改革につなげるための条件
現行制度は勤続20年を超えると控除が厚くなる
現行制度の特徴は、同じ会社に20年を超えて勤めると、退職所得控除の増え方が大きくなることです。
国税庁によると、一般的な退職金の退職所得控除は次のように計算します。
- 勤続20年以下:40万円 × 勤続年数(最低80万円)
- 勤続20年超:800万円 + 70万円 ×(勤続年数-20年)
- 課税退職所得:原則として(退職金-退職所得控除)× 2分の1
たとえば、勤続30年なら控除額は1,500万円です。勤続10年なら400万円、20年なら800万円ですが、21年目からは1年当たり70万円ずつ増えます。国税庁の退職所得の解説で確認できます。
この優遇には理由があります。退職金には、長年の賃金の後払いと、退職後の生活資金という性格があるためです。一度に受け取った金額へ通常の累進課税をそのまま適用すると、毎年少しずつ給与で受け取った場合より税負担が重くなりかねません。
問題は、保護の厚さが老後資金の必要性だけでなく、一つの勤務先での勤続年数に左右される点です。
転職すると何が違うのか
30年間を一社で勤めれば、控除額は1,500万円です。一方、10年ごとに三社を移った場合、各社の勤続期間だけで単純計算した控除額は、それぞれ400万円となります。
実際の税額は各社から受け取る退職金の額、受給年、勤続期間の重複、企業年金の受け取り方で変わります。このため「転職すると必ず控除が300万円減る」とは断定できません。それでも、20年超の加算が一社ごとに判定される以上、長く勤めた人ほど有利になる設計なのは明確です。
ここがポイント: 現行税制が直接「転職を禁止」しているわけではありません。しかし、同じ通算就業年数でも勤務先の分かれ方によって扱いが変わるため、転職に対して中立ではありません。
2026年時点で「20年ルール」はまだ変わっていない
勤続20年超の控除を一律化する案は議論されてきましたが、2026年8月1日時点で基本算式は変更されていません。
政府税制調査会では、働き方やライフコースに中立な税制が検討されています。退職所得についても、長期勤続者を厚く扱う現行制度と、雇用の流動化との関係が論点です。専門家会合の資料でも、給与、年金、退職所得を含むライフコース全体の税負担が扱われています。
ただし、令和8年度税制改正大綱には、20年以下は年40万円、20年超は年70万円という基本構造の一律化は盛り込まれませんでした。現時点では、実施時期や具体的な控除額が決まった制度改正として扱うべきではありません。
実施済みなのはiDeCoとの重複調整
一方、退職金とiDeCoの一時金を近い時期に受け取る場合の調整は変わりました。
令和7年度税制改正では、先にiDeCoなどの老齢一時金を受け取り、その後に会社の退職金を受け取る場合、勤続期間の重複を調整する対象期間が「前年以前4年内」から「前年以前9年内」へ広がりました。2026年1月1日以後に受け取る老齢一時金などが対象です。財務省の税制改正大綱に明記されています。
これは受給時期をずらして退職所得控除を二重に利用する余地を狭める変更です。勤続20年超の年70万円加算そのものを廃止する改革とは別なので、混同できません。
税制だけで転職が増えるわけではない
退職金課税の中立化には意味があります。ただし、転職を左右する要因の中で、税制は一部にすぎません。
総務省の労働力調査では、2025年の転職者は330万人で、前年より1万人減りました。一方、転職等希望者は1,023万人で、前年より23万人増えています。2025年平均結果からは、転職したい人の増加が、実際の転職へそのまま結び付いていないことが分かります。
厚生労働省の分析では、2024年に「より良い条件の仕事を探すため」に前職を離れた転職者が3年連続で増えました。また、15~54歳で過去1年間に離職し、前後とも正規雇用だった人は88万人で、過去10年間で28万人増えています。令和7年版労働経済白書が示すのは、転職が例外的な行動ではなくなりつつある現実です。
それでも人が動けない理由には、次のようなものがあります。
- 転職後の賃金や職務内容が明確でない
- 企業年金や退職金の権利を十分に持ち運べない
- 住宅ローン、子育て、介護が収入減のリスクを大きくする
- 年齢が上がるほど、同等の処遇で採用されにくい
- 会社固有の技能が転職先で評価されるとは限らない
退職所得控除を変えても、これらは解消しません。改革の効果を大きく見せすぎないことが重要です。
影響は世代と勤務先によって大きく異なる
一律の見直しは、全員に同じ結果をもたらしません。
定年が近い長期勤続者
最も影響を受けやすいのは、現行制度を前提に退職金と住宅費、老後資金を計算してきた人です。
仮に20年超の年70万円加算を年40万円へそろえると、勤続30年の控除額は1,500万円から1,200万円へ、40年なら2,200万円から1,600万円へ縮小します。退職金が控除額以下なら影響はありませんが、控除を上回る人は課税所得が増えます。
退職直前にルールを変えれば、働き方を選び直す時間がありません。既得権を永久に固定する必要はないとしても、過去の勤続分を保護する経過措置は欠かせません。
若年・中堅の転職者
若い世代には、勤務先を移っても税制上の不利益が広がりにくい制度が合っています。ただし、効果を得るのが数十年後なら、目の前の転職判断への影響は限定的です。
むしろ重要なのは、転職前後で企業年金を移しやすくすること、求人時に賃金レンジと職務を明示すること、学び直しを実際の採用と賃上げへ結び付けることです。
中小企業や退職給付のない労働者
厚生労働省の2023年調査では、退職給付制度がある企業は74.9%でした。企業規模別では、従業員1,000人以上の企業が90.1%なのに対し、30~99人では70.1%です。就労条件総合調査は、退職金をめぐる格差が税制以前に存在することを示しています。
退職給付がない人には、退職所得控除を中立化しても直接の恩恵がありません。正社員と非正規雇用、大企業と中小企業、自営業者の老後資産形成をどうそろえるかという問題が残ります。
財政面では増収より制度の公平性が焦点になる
控除を縮小すれば税収が増える可能性はあります。しかし、具体案も対象者数も定まっていない段階で、増収額を確定的に語ることはできません。
さらに、退職金の税負担を増やしても、それだけで社会保障財政が安定する規模になるとは限りません。改革の目的を財源確保とするのか、転職への中立性とするのかで評価基準は変わります。
- 中立性が目的:同じ通算就業年数・同じ給付額なら、転職回数による差を小さくする
- 公平性が目的:退職金のない人や少ない人との税負担差も検討する
- 財源確保が目的:増収見込みと使途を示す
- 老後保障が目的:企業年金、iDeCo、公的年金まで一体で設計する
目的を曖昧にしたまま「働き方改革」と呼べば、実態は長期勤続者への増税にとどまりかねません。
現実的な改革は「一律縮小」以外にもある
転職中立性を高める方法は、20年超の控除を削ることだけではありません。
1.過去分を保護し、将来分だけ変更する
制度施行日までに積み上げた勤続期間には現行ルールを適用し、その後の期間から新ルールへ移す方法です。計算は複雑になりますが、退職間近の人への急激な影響を抑えられます。
2.企業単位ではなく通算就業期間を重視する
転職先へ退職給付資産を移した場合、税制上も就業期間を通算しやすくする考え方です。ただし、国が複数企業の勤務・給付記録を長期間管理する必要があり、事務負担と個人情報管理が課題になります。
3.控除と2分の1課税を分けて検討する
退職所得には控除だけでなく、控除後の残額を原則2分の1にする優遇もあります。長期勤続加算だけを狙い撃ちするのか、高額な退職金を含む課税方式全体を見直すのかで、影響する層は異なります。
4.持ち運べる老後資産を先に整える
企業年金や確定拠出年金のポータビリティーを高め、勤務先を変えても積み立てを途切れさせない方法です。転職者の不利益へ直接働きかけるため、税負担の増加より先に進める合理性があります。
反対論にも無視できない根拠がある
長期勤続優遇の見直しに対しては、「長く働いた人への増税だ」「日本型雇用を壊す」との反発が予想されます。これは単なる変化への抵抗ではありません。
退職金は、企業が毎月の賃金とは別に積み上げてきた後払い賃金でもあります。現行税制を前提に労使が制度を設計し、従業員が定年後の生活を計画してきた以上、急な変更は政策への信頼を傷つけます。
他方で、「昔からある制度だから維持する」というだけでは、転職が一般化した社会で同じ優遇を続ける根拠として不十分です。退職金のない労働者も税や社会保険料を負担しています。一社勤続だけを特別に厚く扱う合理性は、定期的に検証する必要があります。
したがって争点は、維持か廃止かではありません。誰の過去分を守り、将来の働き方にどのルールを適用するかです。
今後見るべき4つの分岐点
今後の税制改正論議では、見出しの「退職金増税」だけでなく、次の具体策を確認する必要があります。
- 20年超の年70万円加算を変えるのか、それとも別の中立化策を採るのか
- 施行前の勤続期間と退職間近の人に経過措置を設けるのか
- iDeCo、企業年金、退職一時金をどの期間で重複調整するのか
- 退職給付のない人を含む老後資産形成策を同時に示すのか
改革が働き方を自由にするかどうかは、税率表だけでは決まりません。次の税制改正大綱で確認すべきなのは、控除額の数字以上に、転職前後の資産をどうつなぎ、既に積み上げた権利をどう守るかです。そこが示されなければ、働き方改革という看板より、生活設計を変える増税の側面が前に出ることになります。
